傷病死は人の常で、医学も京都で発展していく数々の証左が今に残っています。 そんな『京都の医史跡』を訪ねます。
※医師やスタッフの肩書き/氏名は掲載時点のものであり、現在は変わっている可能性があります。
わが国の近代産科学の基礎を築いた賀川玄悦(げんえつ、字・子玄)は、元禄13(1700)年、槍術家だった彦根藩士(滋賀県)の子として誕生、嫡子でなかったため7歳で家を出、母の実家に養われて賀川姓を名乗りました。
独学で研究を深める
実家の農業になじめず、鍼灸(しんきゅう)と按摩(あんま)を会得した玄悦は、さらに進んだ医法を学ぶため30歳を過ぎて京都へ。家宅は、下京区松原通南の一貫町(古地図上一くわん町)で、現在は浄土宗玉樹寺となっています。玄悦は、昼は古鉄銅器を商い、夜は鍼灸医として働くかたわら、独学で古医方を学び産科医としての研究を深めていきました。
そんなある日、妊娠中の隣家の奥さんが難産で苦しんでいることを知らされ、分娩に臨みます。玄悦は母子いずれを助けるか悩みますが、熟慮の末、母体を救うことを優先、器具を膣内に挿入して胎児の頭に引っかけ、死胎児を引き出して母親を救いました。
当時の産科学の通説では、妊娠中の胎児は子宮内では頭を上に、お尻を下にして陣痛が始まり、出産の際に胎児の体が回転して頭が下に向かうものと信じられていました。しかし、玄悦はこれが誤りで、妊娠中期頃から頭が下に位置していることを知っていたのです。
世界に誇る「回生法」発見
「回生法」と呼ばれる術法で、寛延3(1750)年に東洋では初めての発見で、以後、難産の際には器具を使用する手術が不可欠とされ、手術方法や器具も改良が加えられていきました。同じ時期に、イギリスの産科医ウイリアム・スメリーもこの術法を発見しており、産科医玄悦の先見性と業績は世界に誇れるものです。
玄悦は生涯、特定の師を仰がず、自身の体験によって究めた研究結果を明和2(1765)年に『産論』として発表。この中で、胎児の「正常胎位」のほか、古来からの慣習であった出産後7日間、産婦を寝かせないようにするための座椅子「産椅(さんい)」や腹帯の害を訴えつづけ、悪習の廃止を唱えつづけました。
シーボルト賀川流産科術翻訳
安永6(1777)年、玄悦は78年の生涯を閉じますが、賀川流産科の門人は2千人を数えました。玄悦没後46年の文政6(1823)年に、オランダ商館医師として長崎に来たシーボルトは、賀川流産科術をオランダ語に翻訳した『日本産科問答』を発表。ドイツ語とフランス語にも訳され、玄悦の名は世界で注目を集めました。
玉樹寺(京都市下京区中堂寺西寺町)には玄悦の墓所と「賀川玄悦顕彰碑」の他、俳人で産科医でもあった水原秋桜子の句碑「産論の月光雲をはらひけり」が建立。彦根市には「賀川玄悦記念彦根美術館」があります。
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