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京の医史跡を訪ねて千年の医の心を今に伝える「医心方」と「医聖堂」「京都古地図」元治元年(国際日本文化研究センター所蔵)医聖堂(今熊野観音寺内)今熊野観音寺(京都市東山区)とりべの東山七条の東の峰は阿弥陀ヶ峰と呼ばれ、この南西一帯が身分の高い者の葬地「鳥戸野」です。徒然草や源氏物語にも皇族方の葬送の場として、たびたび登場しています。ちなみに北西側は庶民の葬地「鳥辺野」で、この両方を合わせた呼称が「鳥部野」とされます。とりべのとりべのつかさどこの鳥戸野の葬地を掌っていたのが今熊野観音寺です。同寺は、東山通りから泉涌寺道を登った先、泉涌寺の北に座し、紀州熊野の観音霊場になぞらえた山麓に社殿が造営されています。凛とした空気で満たされた境内では、その最も高い位置に朱色の多宝塔が建っています。これは奈良・平安時代からの医の先哲を合祀した「医聖堂」です。脇に建てられた碑文には曲直瀬道三、山脇東洋、杉田玄白、緒方洪庵など錚々たる顔ぶれが並んでいます。そうそう「医の先哲」を合祀する医聖堂の碑文奈良・平安時代から現代に至っているより京の医の先哲で注目したいのは、平安中期の医博士(※)丹波康たんばのやす頼です。康頼は時の天皇の勅命を受け、隋・唐の医書をもとに医療、本草、養生等の肝要を「医心方」全30巻にまとめ、984年に献上しました。※医博士は典薬寮の官職名すくね康頼は、この功績で「丹波宿禰」姓を賜り、宮廷医として名を馳せる丹波氏の祖となりました。康頼は丹波の国の出身で、渡来人の末裔とされていますが確たる史料がなく、様々な説が伝えられています。また、出身とされる亀岡市には、康頼がここに住み、薬草を育てたと言われる「医王谷」の名が残っています。医心方は現存する最古の医療書で、全て漢文で記されています。写本も多くつくられ、本邦の医療に多大な影響を与えました。なかでも宮中に数百年、保管されていた平安後期の写本が、丹波氏と並ぶ二大医家の半井家にもたらされ、これが国宝に登録されています。医心方が参照する古典書籍は散逸しているものも多く、本邦に留まらず東洋医学の史料としても大きな価値があります。なからい医心方編纂から1000年を迎えた1984年、これを称える碑が同寺に建立され、偉業を今に伝えています。丹波康頼医心方一千年記念の碑医心方(京都大学附属図書館所蔵)丹波康頼像TAKEDA12224