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京の医史跡を訪ねて

傷病死は人の常で、医学も京都で発展していく数々の証左が今に残っています。 そんな『京都の医史跡』を訪ねます。

※医師やスタッフの肩書き/氏名は掲載時点のものであり、現在は変わっている可能性があります。

2015.10.20 日本の解剖学の先駆者 山脇東洋

 宝永2(1705)年、東洋は京都で誕生、町医者としての父・清水立安が請われて入籍した山脇家に子供がなかったため、父の死後、22歳の東洋が養子に迎えられた。養父の山脇玄心(1597~1678年)は、日本医学中興の祖と称された2代目・曲直瀬道三(まなせ・どうさん)のもとで医学を修め、京都御所(禁裏)の侍医となった名医として知られている。

 医師としての東洋は、玄心と同じ漢方医学の1学派「病気の原因は体内の環境にある」と考える「李朱医学」を修めたが、30歳を過ぎてから、後藤艮山(ごんざん)に師事し、香川修徳らと共に「古(いにしえ)の医学を今の時代に再現する」という「古医方(こいほう)」を唱えた。

 その医方は、お灸や熊の胆(くまのい)、蕃椒(とうがらし)、麦門冬湯(ばくもんどうとう)などの気うつの漢方処方のほか、温泉療法や食事療法といった、まさに現代の生活習慣病への対応と同様の治療法だった。

 東洋は、イタリア・パドゥア大学教授のヨハネス・ヴェスリング(1598~1649)によって1641年に発刊された『解剖学の体系』を入手していたこともあり、東洋医学の「肝、心、脾、肺、腎」と「大・小腸、胆、胃、三焦、膀胱」の五臓六腑説に疑問を抱き、いつの日か自分の目で人体内を確かめたいと考えていた。

 その機会は偶然訪れた。東洋49歳の宝暦4(1754)年、斬首となった罪人5人のうちの1人が埋葬されずに、元の六角獄舎に戻されて残っているとの情報を得た。東洋は京都所司代の酒井忠用(ただもち)に解剖許可願いを提出。3代にわたる宮廷医家の東洋の依頼で、東洋の弟子である小杉玄適、伊藤友信が、所司代と同じ若狭の藩医だったことから願いが聞き入れられ、弟子らとともに、獄舎の前庭に設けられた筵(むしろ)の上で胸腹部の観臓(解剖)を行った。

 京都市中京区六角通大宮西入の六角獄舎跡には、「日本近代医学のあけぼの山脇東洋観臓之地」の記念碑がある。碑には、「日本最初の人体解屍観臓をおこなった江戸の杉田玄白らの観臓に先立つこと17年前であった。この記録は5年後に『蔵志』としてまとめられた。実証的な科学精神を医学にとり入れた初めで、日本の近代医学が芽生えるきっかけとなった。1976年・日本医師会・日本医史学会・日本解剖学会・京都府医師会」とある。

 宝暦12年8月6日、東洋は五摂家の鷹司家へ往診に赴いた際、馳走になった食で中毒症状を起こして2日後に死去。享年58歳。遺骸は総本山真宗院(伏見区深草真宗院山町)の山脇家墓所に、分骨は浄土真宗深草派本山の誓願寺(中京区新京極三条下ル東入ル)に、東洋の妻、解剖に供された罪人たちの法名とともに祀られている。

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