傷病死は人の常で、医学も京都で発展していく数々の証左が今に残っています。 そんな『京都の医史跡』を訪ねます。
※医師やスタッフの肩書き/氏名は掲載時点のものであり、現在は変わっている可能性があります。
国産初期のレントゲン装置(X線撮影機器)が、「島津製作所 創業記念資料館」に残されています。明治29(1896)年、ヴィルヘルム・レントゲン博士がX線を発見した11カ月後に、二代目島津源蔵が第三高等学校(現・京都大学)との協働で、X線撮影に成功させました。その後の医療や科学の発展に多大な貢献を果たす源蔵の足跡をたどります。
初代島津源蔵が、現在の資料館所在地で理化学器械製作場を創業しましたが、55歳で他界します。家の手伝いのため、小学校へは1年半しか通うことができなかった長男の梅治郎(二代目源蔵)ですが、早くから科学知識に興味を持ち「都をどり」でアーク灯を点灯、その半年後の明治17(1884)年には、その後、X線写真撮影の電源となる発電装置「ウイムシャースト感応起電機」の試作に成功。「外国に頼らない、日本独自の科学技術を確立する」という初代の強い思いは、25歳で代表となる二代目にしっかり受け継がれました。
源蔵は「日本も科学立国たるには理化学教育を確立させる以外にない」と、西欧から輸入される先端機器を教育実習用として次々制作、各地の小学校などへ収めました。X線は、ドイツのストラスブルグ大学でレントゲン博士と研究室を共にした第三高等学校の村岡範為馳(むらおか・はんいち)教授が研究を行っていましたが、高圧発電装置など理化学機器の先駆としての源蔵に協働を呼びかけます。
X線の撮影は当初、失敗を重ねたものの、レントゲン博士の発見から11カ月後の明治29(1896)年には撮影に成功、さらに、「人々の役に立たなければ意味がない」との源蔵の研究心により、翌明治30年に教育用X線装置を完成。13年後の明治42(1909)年、国産第1号となる医療用X線装置も完成させ、千葉県の国府台陸軍衛戌病院(現・国立国際医療センター国府台病院)をはじめ多くの病院に納入されました。
X線撮影には、5万〜10万Vの高電圧が必要で、X線感応の性質や、レベルランクが合わないと撮影は不可能です。少年期に試作した「ウイムシャースト感応起電機」が役立ったのを初め、後の画期的な発明「易反応性鉛粉製造法」による蓄電池は、島津源蔵の頭文字をとってGSバッテリーとしてあまりにも有名です。
その他、X線技師養成のため、昭和2(1927)年には、現在の創業記念資料館を校舎として「島津レントゲン技術講習所」(現・京都医療科学大学、園部町)を開講しました。
源蔵は昭和26(1951)年10月3日、82歳で亡くなります。生涯の発明考案は178件に上り、「日本のエジソン」と称されました。汎用X線装置「ダイアナ号」が資料館に常設されているのをはじめ、科学の発展の歴史的展示物が見学できます。
島津製作所 創業記念資料館
京都市中京区木屋町二条南
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