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京の医史跡を訪ねて

傷病死は人の常で、医学も京都で発展していく数々の証左が今に残っています。 そんな『京都の医史跡』を訪ねます。

※医師やスタッフの肩書き/氏名は掲載時点のものであり、現在は変わっている可能性があります。

2014.09.11 医学の礎を築いた「医聖」曲直瀬道三

禅僧の食事の世話をしながら学問を学ぶ「喝食(かつじき)」から、22歳で北関東の日本最古の足利学校で医学の道を目指した道三は、38歳で京都に戻り医学舎「啓廸院(けいてきいん)」を設立し、800人もの医生を世に送り出しました。今日の医学大学の礎を築いた「医聖」の生涯をたどります。

相国寺門前町の柳原(現・上京区柳原町)で生まれ、幼くして両親と死別した道三は、永正13(1516)年、五山文学の中心であった相国寺で、13歳から喝食として修行僧の世話をするかたわら詩文や書を学習。22歳の時に、日本最古の下野国足利学校(栃木県)で、中国・漢、唐の詩や算理博物学を修めたが、24歳の折に同校の先輩で、戦国の名医として知られた田代三喜(さんき)と出会い、入門して李朱医学(中国・明の漢方医学)を学びました。三喜は、道三を自身の後継者として指導、死期近い病床でも口述を続け、79歳で没しましたが、以後、李朱医学は道三によって広められていきました。

三喜の死を期に、天文15(1546)年、10年ぶりに京都へ戻った道三は医業に専念、たちまち名声は高まり、室町幕府13代将軍・足利義輝を治療したことから、細川勝元、三好長慶(修理)、松永久秀(弾正)ら幕府重臣の信任を得ました。幕府の支援もあって道三は、医学界発展の人材育成を目途に、現在の医科大学といえる「啓迪院(けいてきいん)」を創建し、約800人の医生を世に送り出しました。

道三は学舎での指導のかたわら、古来の内外医書の調査にも心血を注ぎ、八巻に及ぶ『啓廸集(けいてきしゅう)』を脱稿したのをはじめ、『薬性能毒』『百腹図説』『正心集』『指南鍼灸集』など、記した医学書は多数に上ります。特に『啓廸集』は、自らの臨床体験を基に、74部門(内科、外科、婦人科、小児科、薬学など)に上っています。

天正2(1574)年には正親町(おおぎまち)天皇に拝し診察、天皇守護を御旗に京を制圧した織田信長も治療しています。晩年の道三は、天皇御一家、豊臣秀吉、毛利元就(もとなり)、蒲生氏郷(がもう・うじさと)らの治療にあたったほか、徳川政権になって以後は、曲直瀬家を世襲の侍医典薬とする内規が定められ、二代目道三・曲直瀬玄朔(げんさく)など江戸後期まで、代々曲直瀬流医法は引き注がれました。

文禄3(1594)年1月4日、88歳で永眠。死後、正二位法印が追贈された。墓所は京都市上京区寺町今出川上ル鶴山町、十念寺に顕彰碑とともに祀られています。

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