傷病死は人の常で、医学も京都で発展していく数々の証左が今に残っています。 そんな『京都の医史跡』を訪ねます。
※医師やスタッフの肩書き/氏名は掲載時点のものであり、現在は変わっている可能性があります。
西欧医学導入の基礎となる蘭学を京都など西日本に広げた小石元俊(寛保3・1743年~文化5・1808年)をはじめ、2代目元瑞から現在の9代まで、途切れることなく庶民の医家としてつづく小石家は、江戸後期から幕末、明治にかけての京都医学の柱としての存在でした。
お釈迦様が虫歯かどうかは知らざるところですが、仏陀は「歯磨きの五つの高徳」を説いています。
小石家の祖は、代々、若狭小浜藩の家老職でしたが、元俊の父・林野(はやの)市之進は脱藩、小石李伯と改名し、諸国流浪中に丹後・柴原家の佐代と結ばれ、山城国桂村(現・西京区)で生まれたのが元俊です。「脱藩の際、殿様から得た金品は、同道した50人の家臣に全て与えたため極貧で、後に長男の元瑞がまとめた『行状』には、『父・元俊が足袋を履けるようになったのは40歳の時だった』とあるほどですから、よほど貧しかったんでしょうね」と、9代元紹さん(小石医院院長)と母ナカさん(元院長)は話します。
寛延3(1750)年、父に従い大坂へ移った元俊は、幼少から地理や天文書を読み、「今の世に人を救うは医の他になし」と、10歳で、宝暦4(1754年にわが国初の「観臓」(解剖)を行った山脇東洋門下の淡輪元潜(柳川藩医)に師事。さらに20歳の時に、一代の英傑と称された大阪の医師、永富独嘯庵(どくしょうあん)に付き、「医理は和蘭(オランダ)医学にあり」との教えに、陰陽五行説に基づく旧態医学に強い疑問を抱きます。
元俊は東洋の孫弟子として、人体解剖への立ち会いや主導的立場にもあり、医師としての名声は各地に広がっていきました。そんな安永3(1774)年に、杉田玄白の『解体新書』が発刊され、矢も盾もたまらず江戸に出向き、玄白や前野良沢らに直接会って蘭医学や解剖論を闘わせました。元紹院長は、「元俊は、玄白が京都へ来た時には宿へ出向いて毎日討論、玄白が出かけると出先まで押しかけていったそうです」とのエピソードを披露してくれました。
元俊は、天明3(1783)年と寛政8(1796)年の2度、伏見刑場で刑死者の人体解剖を行いました。
小石医院に残る『平郎臓図』はカラーの巻物で、元俊が吉村蘭洲ら画家3人を立ち会わせ、解剖の全てを写生させます。手足の腱、頭蓋内や胆肝腎臓、心臓の冠動脈などきめ細かく描かれているほか、罪人の持病(脚気の疑い)まで指摘(診断)しているのも特徴です。
元俊は医業の傍ら、現在の小石医院の所在地(京都市中京区釜座通竹屋町下ル)に、医学塾「究理堂」を開設、門下生は、北は越前から南は九州まで千有余人に上ります。
元俊の長男、元瑞(天明4・1784年~嘉永2・1849年)も、16歳で江戸に赴き、杉田玄白、大槻玄沢等について和蘭医方を学び、京都で医業と究理堂医塾を引き継ぎ、後身の育成に尽くしました。エピソードの一つ、 柳川藩主が江戸で尿血症に罹り、漢方医に治療を受けたが重篤に陥り、元俊と旧知であった有馬織部に乞われて治療に当たって治癒し、養老俸30口を藩から賜るなど、その名は全国に知られ、治療した患者は1万人に上ったといいます。
親子とも文雅の人で、元俊は儒学者の皆川淇園や頼春水と並ぶ三傑と称されました。元瑞は学識、文才ともに優れていたほか、豪放磊落であったことから、頼春水の息子の陽明学者・頼山陽、画家・篠崎小竹、小田海僊(おだ・かいせん)、三筆と称された貫名海屋(ぬきな・かいおく)、文人画家で煎茶人の田能村竹田、木村蒹葭堂、山本梅逸、浦上玉堂、岡田半江、青木木米、細川林谷らが元瑞の周囲に集い、元瑞宅はサロンの様相でした。
元紹院長の話では、究理堂には頼山陽や、「天保の乱」の大塩平八郎らのカルテや「門人帳」、『疫論』(元瑞著)など多数の著書が現存しており、「地方の蘭学研究のために重要な資料になっています。これらの史料を継承するのが私たちの役目です」と語っておられました。
Copyright © 2015 Takeda Hospital Group. All rights reserved.